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広沢池は、日本三沢の一つといわれる。
奈良の猿沢池、大分県宇佐市の初沢池、そして広沢池である。 広沢池は古くから王朝の歌人に詠まれた嵯峨野を代表する景勝地であり、日本の心の風景、故郷とも呼ばれる。
史誌によれば、古代広沢池は嵯峨野の中央に位置し、京都太秦に居住した帰化人新羅系の人々、秦一族によって嵯峨野を開拓したときに造られた地とされる。 それはこの地にその頃のものと見られる古墳群が、広沢池から北嵯峨にかけて発見されている。
また一説では、平安時代中期永祚元年(989年)に宇多天皇の孫、寛朝僧正が朝原山に遍照寺を建立したときに開削された池とも伝えられ別名、遍照寺池ともいわれる。
遍照寺は当時大覚寺と隣接して壮大な伽藍を構え一大精力を誇っていたが、応仁の乱で衰退しその後、江戸時代の寛永年間に今の広沢池の南、嵯峨広沢西裏町に再建され今日に至っている。 寺には当時のものとして、本尊十一面観音像と不動明王座像が残され、今も大切に守られている。 池のほとり西南に児社(ちごのやしろ)があるが、これは遍照寺の開祖寛朝僧正に仕え、僧正の死後池に身を投げた侍童の霊を祀ると伝えられる。
池の西岸近くに観音島があり、千手観音の石像と弁財天が祀られている。 平安時代にはこの観音島に遍照寺から橋がかけられ観月の勝地として、千代の古道を通り大宮人が盛んにこの地を訪れ歌を詠んだという。 千代の古道とは、京都御所から嵯峨御所(大覚寺)への途中小高い丘があり丘のすそを進む道のことである。
広沢池にうかべる白雲は底吹く風の波にぞありける(源重之集)
散る花に汀のほかのかげそひて春しも月は広沢の池(藤原定家[拾遺愚草])
心には見ぬ昔こそうかびけれ月にながむる広沢の池(藤原良経[秋篠月清集])
また芭蕉の名句「名月やいけをめぐりて夜もすがら」の句碑が先年、広沢池畔にあった。
嵯峨野は王朝時代の公家貴族達の遺跡、伝説、文化にあふれているが、広沢池のほとりに立つとその古代人の面影を抱くことができる。
北嵯峨に嵯峨天皇の山上陵がある。 ここから嵯峨野一体大沢池から広沢池に至る田園風景を見渡すことができる。 特に晩秋の朝、籾焼きの風景はすばらしい。 嵯峨野の秋は長く紅葉が美しいとされるが、広沢池周辺もおなじである。 師走の頃になると鯉上げの行事が行われ、池の水がなくなり冬の渡鳥が訪れる。
撮影は、ほとんど夜明けから朝のうちで何回か通っているときに、地元の人からここは朝霧が立ち昇り、一年を通じてすばらしいところだと聞いたのが動機である。
近年、広沢池も撮影当時から比べると、整備、観光化が進み変化しているが、広沢池から大沢池に至る田園風景は変らずに美しい。また山越を過ぎて突然、遍照寺山が姿を見せる風景はいつみても心動かされる。いつまでも美しい景観を残してほしい。
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